日本から遥か遠く、1万4000km離れた南アフリカ・ソドワナ湾、水深113m。
シーラカンスが棲むそこへは、人間が潜ることのできる極限の深さであり、厳しいテクニカルダイビングの技術を習得した者だけが到達することができる。
その場所を目指したダイバーたちがいた。“TEAM FOSSILS”。
「潜ってシーラカンスを撮影する」という、たった一人の思いはやがて具現化し、ダイバーたちは一つになって命懸けの夢を見た。
人間を寄せ付けることのない深い海の底で静かに息づくシーラカンスの姿を、彼らは捉えることはできるのか。
なぜ彼はシーラカンスを?
「ROV(遠隔操作型無人潜水機)は使用しない。生身の人間がそこへ潜り、シーラカンスを撮る」。
普通の人なら、そんな夢を抱かないだろう。
地球の裏側ともいえる南アフリカのソドワナ湾、その100mを優に超える海の底へ、シーラカンスに会いに行くなどとは。
想像を絶するこのビッグプロジェクトを立ち上げたその人の名は、実業家で水中写真家、そしてテクニカルダイバーである前田和彦氏。
「幼心に刻まれた、古代から姿を変えることなく命を繋ぎ続けるシーラカンス。長い間胸に在り続けたそのシーラカンスを、2000年にピーター・ティムら3人のダイバーが南アフリカの海に潜り目視したという。それを知り、『シーラカンスの海に潜ってみたい。そしてその姿をカメラに収めたい。すでにやった人間がいるのだから、自分にできないはずはない』と決心したのです」。
原点はその一つの思いだった。
シーラカンスが棲む南アフリカのポイント、そこに潜った人間は世界中でたった24人。
然るべき知識と技術、能力をもち、その海に認められた人間のみが入ることを許される。その事実が前田氏をますます駆り立てた。日本写真家協会に属する水中写真家としての集大成をという思いもあった。
さらに自らが実践するテクニカルダイビングに対し、使命感も抱いていた。
テクニカルダイビングとは、たとえば水深45mでは陸上と比較して5倍以上の気圧に晒されるなど、高い水圧下で直接水面に浮上できないような環境を潜るために、水中での段階的な減圧停止やナイトロックス(窒素と高濃度酸素の混合ガス)、トライミックス(窒素と酸素、ヘリウムの混合ガス)を用いて体内に蓄積した窒素の排出を早める加速減圧などを必須とするもの。
レクリエーションダイビングと違い水中でのタスクが多く、緊急時でもすぐに浮上できないことから重大事故を引き起こすリスクも伴う。
水中での混合ガスの取り扱いだけでなく、リブリーザー(呼吸で吐く空気を排気せず、そのガス成分を調整して再び呼吸用のガスとして使用するための循環式呼吸装置)など特殊な器材を使用する知識とスキルも必要だ。
さらにどのようなリスクが想定されるのか、それをどのように回避するかという計画と管理、緊急時に冷静に対処するための判断能力と経験値がなければ安全な遂行はできない。
そうしたことから、テクニカルダイビングには相当な訓練を要する。
「深い場所で、長時間に亘るダイビングでは大きな危険が伴います。ですが近年のテクニカルダイビングに対する知識の蓄積や技術の進歩によって、ダイビングの可能性が広がっていることを、このプロジェクトを通じて多くのダイバーに伝えたい」。
そして彼には、海に対する深い思いがあった。
「長い間会社経営をしてきて、ストレスもたくさんありました。そんな時、海の中だけは私にとって誰とも話さず、ただ静かに目に入ってきたものだけを見つめるだけでいい、癒しを与えてくれるかけがえのない時間でした。だからいつか、海のために自分ができることを、未知なる海の真実を多くの人に伝えることができるような貢献ができればと思うようになりました」。
だが100mを超える水深に潜り、シーラカンスを撮影するのは決して簡単なことではない。どれほどの費用がかかるかもわからない。エラーによっては命を落とす可能性もある。それでも前田氏は夢を見た。
「シーラカンスを撮りに行きたい」。
そう、思いを最初に告げたのは、田中光嘉氏にだった。
シーラカンスを撮るには、テクニカルダイビング抜きでは叶えられない。田中氏は当時INATD(テクニカルダイビングの指導団体)の代表を務めていた国内屈指のテクニカルダイバーだった。
胸の中ではち切れんばかりに膨らんでいた夢が外に飛び出した。前田氏が50歳、2011年のことだ。
ところが夢の行先は、困難で塞がれていた。
シーラカンスが棲む、ソドワナ湾のそのポイントに潜ったとしても、必ず遭遇できるわけではない。しかも潜れるのは1日に1度だけ。したがって遭遇率を上げるためにシーラカンスが生息する的確な場所と出現する気象条件を見つけ出す必要があった。
しかしどういう状況で潜ればシーラカンスと高い確率で遭遇することができるのか、そのための情報が全くと言っていいほどなかった。現地住民でもその確かな情報をもっているわけでもないのだ。
巣穴はどこにあるのか。100mから700mまでともいわれる深い水域に生息するシーラカンスが、どの季節にどの水温で、どのような潮の流れで移動しているのか。潜るべきタイミングは干潮か満潮か、風はオフショアかオンショアか。
シーラカンスがいるその場所は、不確かな未知の世界そのものだった。
まさに暗中模索の出発。『何月何日に見たのか、水温は』と少しでも糸口になるような情報を求め、そのポイントでシーラカンスを見たというわずかなダイバーに連絡を取り、聞き込んだ。そこから潮見表で分析を重ねていく。
「プロジェクトが走り出してから最初の3~4年間は現地のそうした情報収集と分析、研究に費やしました」。
そんな中、2013年からシーラカンス探求に挑んでいたローラン·バレスタ氏らフランスチームによる撮影成功のニュースが飛び込む。
2015年 ローラン氏来日の際に、和歌山·古座にいると聞いた前田氏は少しでも情報を得ようと、滞在していた高知・柏島からすぐに古座へ駆けつけた。
そこではこんなやり取りもあった。
「ローランは『君には撮れないよ。技術も実力も、現地の人脈もないよね』と。彼が放ったその言葉に、胸に熱いものが走りました。足りない知識や技術は学べばいい、現地の人脈は自分で作ればいい。『絶対にやってやる』と、思いは一層強くなりました」。
またシーラカンスの生息ポイント、自然保護区のイシマンガリソ湿地公園の域内に潜り、撮影するにはパーミッションを取得する必要もあった。
「現地と1日に3~4回やり取りし、気がつけば交わしたメールは何千通にも及んでいました。ようやくその関係性を築きかけた頃、現地からの連絡がぱったり止まってしまった。国定公園水域内で水難事故が起こったのです。ポイントはクローズ。
やり取りできない日々が続き『夢を叶えることはできないのか…』と肩を落としていたのですが、再び連絡が来てやっと、現地で直接交渉できることになったのです」。
前田氏はすぐさま南アフリカに飛んだ。
目的はパーミッションを得ることだったが、彼が現地で行ったことはそれだけではなかった。
環境保護や学校支援などボランティア活動や寄付を通じて、現地住民と心を通わせ、信頼関係と絆、人脈を自らの手で少しずつ築くことに力を注いだ。
それはこれから5回に亘る渡航において彼の欠かさない活動となる。
前田氏の真摯なその姿は現地機関そして住民たちに受け入れられ、ようやく潜降と撮影のパーミッションが下りる。
頼るべき情報と人脈のない困難の中に、前田氏は少しずつ、その奇想天外な夢の可能性を掴み始めていた。
この夢を夢で終わらせるのではなく、プロジェクトとして具現化して実現させるために、前田氏が次に始めたこと、それがチームの構成だった。
テクニカルダイビングのスキルはもちろんのこと、魚類の知識や水中での撮影など高い専門性をもったダイバーを必要とした。
そんな前田氏の元へ、プロジェクトを聞きつけたトップダイバーの猛者たちが次々と名乗りを上げてきた。
続きが早く見たいですね。同じ歳でそこまでできる体力と精神力に感服いたしております。
荒さん、こんばんは。
やっと物語がスタートしました
何回連載になるかわからないけど、辿り着くまでの道のりを書いてもらっえます。
ワクワクします。
次回も楽しみにしてます。
実話なので深掘りしていきます。
楽しみにしていて下さいねー
当初の予定が延期され、その後の日程に都合を合わすことができずに参加を辞退したことを、今でもちょっと後悔しています。。。
三保先生ご無沙汰です。
シーラカンスプロジェクトの小説版の時には立ち上がり時の時の取材させて下さいませ。
物語が深く良い感じになってきました!
引き続きよろしくお願い致します。